「いつか」なんてたいてい来ない
- 2017/08/26
- 11:27
ミニマリストやシンプルライフを目指そう系の読み物ではよく「いつか使うかも、と思うものでも一定期間を過ぎたら思い切って処分しましょう。」みたいな記述を見かけます。
確かに、いつか使う・・・の「いつか」っていつよ?と言われたらなかなか答えられませんよね。
私は雑貨や洋服に関しては、1年使ってないことに気づいたら気づいた時に捨てるようにしてます。

うちにあった辞書によると、「いつか」とは「未来の不定の時」や「そのうちに」と言う意味だそうです。
だから、「いつか使うもの」と言うのは、いつかはわからないけど、この先使うことがあるかもしれない、みたいなニュアンスなのかな。
・・・すごく使わなさそうな感じがしますね苦笑。
やっぱり自分で決めた一定期間を過ぎても使わなかったものはさっさと処分が正解なのかもしれません。
この「いつか」と言う言葉は、漠然とした希望や目標にも使われることがあります。
・いつか家族で海外旅行に行きたい
・いつか好きな仕事で独立したい
・いつか昔お世話になった○○さんに会いに行きたい
などなど。
でも、この「いつか」と言うのは上に書いたように不確かではっきりしない未来を指す言葉。
例えば、ただ漠然と「いつか家族で海外旅行に行きたい」と思っていたとして、その「いつか」が、時を経ることで自動的にやってくる訳ではありません。
「家族で海外旅行に行きたい」と本当に思っているなら、毎月いくらか積み立てて旅行資金を貯めたり、家族のスケジュールや希望の旅行先を話し合うなどの具体的な「行動」をとるはずです。
そして具体的な行動をとっていれば、自ずと旅行の時期は決まり(「毎月○円ずつ積み立てたら△ヵ月後には旅行資金が貯まるから、そしたら行こう!)、「いつか」と言う言葉の出番はないのです。
そう考えると、「いつか」と言う言葉は、自分では気づいていないだけで、それを叶えるための具体的な努力なしに「出来たらいいな」と思っていることに対して使いがちな言葉なのかもしれませんね。
私も以前は「いつか」をよく使っていました。
そしてそれを無意識に心の支えにしていた時期もありました。
結婚して、子供に恵まれ、そしてその子供に障害があるとわかって、延々続く療育と介助の日々、いつオムツを替えなくてよくなるんだろう、いつ普通の食事を家族みんなで食べられるようになるんだろう、いつこの子と言葉が交わせるようになるんだろう。
たくさんの「いつ」の答えが「いつか」でした。
きっと「いつか」どうにかなる。
そう思って、とにかく目の前のことだけに全力投球していたように思います。
ところがある日、たまたまた受けたがん検診で私は引っかかってしまいました。
取り除かなければいけない腫瘍がある、だけどそれがまだどの程度のものなのかわからないから再検査を受けてください。
突然のがん疑惑、私よりむしろ周囲が大混乱です。
今でも覚えてます、がん検診でがんの可能性があるから再検査することになった、と配偶者に告げた日、「ちょっと出かけてくる」と家を出た配偶者が戻って来た時は配偶者と私の両方の親が一緒でした笑。
5人で「これからどうしよう」「がんだなんて!!」と、もう大騒ぎ、うちの母親なんてわなわなしてました笑。
そんな騒ぎが私にはとても不思議でした。
なんでこんなに大騒ぎするのだろう、と。
もしこれで私の人生が終わってしまったら、それはそれで仕方ないよね、と言う気持ちが私の中にはあったのです。
だって、当時の私は、「いつ」に「いつか」を繋げて何かを待ち続ける日々しか持っていなかったのです。
それは充実はしているけれど、どこかむなしさを伴っていて、そんな私の人生の終わりは、イコールそれらからの解放でもあったからです(まぁ逃げですね)。
誰にも言えない妙に淡々とした気持ちを抱えながら、再検査の結果が出るまでの数日、それでも少しずつ心境に変化が現れました。
私はいつも子供の「いつか」を待ち続けていたけれど、自分に対してはどうなんだろう?
自分の「いつか」も確か持っていたよね。
いつか、もう少し生活が落ち着いたら、もっと美容院にも行きたいな、もっと友達とランチもしたい、もっと服にも気を使えるようになりたい、などなど。
だけど、これで人生が終わるなら、「いつか」なんて私には来なかったってことだよね。
そこで初めて思いました。
え、まじで・・・?
心のずーっとずーっと底の方に隠れていた私自身の「いつか」、それがこんな突然「来ない確定」しちゃうの?
そりゃないよベイベー!ですよ。
がん疑惑浮上から数日、私はやっと「なんてひどい話だ」と思うようになりました。
そして考えました。
もし再検査でがんじゃなかったら、いやいや、がんだったとしても治ったら、とにかくこの人生をまだ続けることが出来そうになったら、「いつか」したいと思ってたことをすぐしよう。
「いつか」が来るかなんて誰にもわからない、それどころか人生なんていつ終わるかわからない。
「いつか」を待ってる暇なんてないやん。
私の頭の中に「検査が大丈夫だったらすぐやること」リストが出来ました。
*****
そして再検査の結果が出た日。
私に出来ていた腫瘍はごくごく初期のもので、放っておくとがん化する可能性が高いけれど、今取り除けばほぼ心配のないものとわかりました。
摘出手術を受け、ついでにその数ヵ月後に前々からどうにかしなきゃなと思っていた持病の手術もしました。
そしてそれまで自分が「いつか」したいと思っていたことを、「いつか」に頼ることなくひとつずつ実行するようになりました。
「いつか」が来る保障なんてどこにもない、と心底実感したからです。
そして今私は自分に「いつか」を許しません。
「いつか」なんて言ってたらいつまでたっても出来んわ!今やれ今!と日々自分自身に言い聞かせてます。
子供に対しても「いつか」を抱かなくなったように思います。
いつオムツが取れる?いつ普通の食事が食べられるようになる?いつ喋れるようになる?
次男は18歳=18年間この子を育てて来ました。
今、上記の問いに対して答えるとすれば
いつでも良いや~
です。
出来るようになればもちろんいい、でも出来なくてもそれはそれで構わない。
ただひたすら「いつか」を待ち続けるよりも、「いつでもいいや」と思うことで次男とより良い形で関わることが出来るようになったと思います。
このブログを見てくださっている方の中にももしかすると「いつか」~してみたいと思っている人がいるかもしれません。
もしそうなら「いつか」ではなく「今」行動してみてはいかがでしょうか。
もちろんそれは簡単なことではないでしょう。
でも、「いつか」を待つのをやめること、それが「後悔しない人生」に繋がるように私は思います。
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確かに、いつか使う・・・の「いつか」っていつよ?と言われたらなかなか答えられませんよね。
私は雑貨や洋服に関しては、1年使ってないことに気づいたら気づいた時に捨てるようにしてます。

うちにあった辞書によると、「いつか」とは「未来の不定の時」や「そのうちに」と言う意味だそうです。
だから、「いつか使うもの」と言うのは、いつかはわからないけど、この先使うことがあるかもしれない、みたいなニュアンスなのかな。
・・・すごく使わなさそうな感じがしますね苦笑。
やっぱり自分で決めた一定期間を過ぎても使わなかったものはさっさと処分が正解なのかもしれません。
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「いつか」は漠然とした希望や目標にも使われる
この「いつか」と言う言葉は、漠然とした希望や目標にも使われることがあります。
・いつか家族で海外旅行に行きたい
・いつか好きな仕事で独立したい
・いつか昔お世話になった○○さんに会いに行きたい
などなど。
でも、この「いつか」と言うのは上に書いたように不確かではっきりしない未来を指す言葉。
例えば、ただ漠然と「いつか家族で海外旅行に行きたい」と思っていたとして、その「いつか」が、時を経ることで自動的にやってくる訳ではありません。
「家族で海外旅行に行きたい」と本当に思っているなら、毎月いくらか積み立てて旅行資金を貯めたり、家族のスケジュールや希望の旅行先を話し合うなどの具体的な「行動」をとるはずです。
そして具体的な行動をとっていれば、自ずと旅行の時期は決まり(「毎月○円ずつ積み立てたら△ヵ月後には旅行資金が貯まるから、そしたら行こう!)、「いつか」と言う言葉の出番はないのです。
そう考えると、「いつか」と言う言葉は、自分では気づいていないだけで、それを叶えるための具体的な努力なしに「出来たらいいな」と思っていることに対して使いがちな言葉なのかもしれませんね。
私が「いつか」なんてたいてい来ない、と思う理由
私も以前は「いつか」をよく使っていました。
そしてそれを無意識に心の支えにしていた時期もありました。
結婚して、子供に恵まれ、そしてその子供に障害があるとわかって、延々続く療育と介助の日々、いつオムツを替えなくてよくなるんだろう、いつ普通の食事を家族みんなで食べられるようになるんだろう、いつこの子と言葉が交わせるようになるんだろう。
たくさんの「いつ」の答えが「いつか」でした。
きっと「いつか」どうにかなる。
そう思って、とにかく目の前のことだけに全力投球していたように思います。
ところがある日、たまたまた受けたがん検診で私は引っかかってしまいました。
取り除かなければいけない腫瘍がある、だけどそれがまだどの程度のものなのかわからないから再検査を受けてください。
突然のがん疑惑、私よりむしろ周囲が大混乱です。
今でも覚えてます、がん検診でがんの可能性があるから再検査することになった、と配偶者に告げた日、「ちょっと出かけてくる」と家を出た配偶者が戻って来た時は配偶者と私の両方の親が一緒でした笑。
5人で「これからどうしよう」「がんだなんて!!」と、もう大騒ぎ、うちの母親なんてわなわなしてました笑。
そんな騒ぎが私にはとても不思議でした。
なんでこんなに大騒ぎするのだろう、と。
もしこれで私の人生が終わってしまったら、それはそれで仕方ないよね、と言う気持ちが私の中にはあったのです。
だって、当時の私は、「いつ」に「いつか」を繋げて何かを待ち続ける日々しか持っていなかったのです。
それは充実はしているけれど、どこかむなしさを伴っていて、そんな私の人生の終わりは、イコールそれらからの解放でもあったからです(まぁ逃げですね)。
誰にも言えない妙に淡々とした気持ちを抱えながら、再検査の結果が出るまでの数日、それでも少しずつ心境に変化が現れました。
私はいつも子供の「いつか」を待ち続けていたけれど、自分に対してはどうなんだろう?
自分の「いつか」も確か持っていたよね。
いつか、もう少し生活が落ち着いたら、もっと美容院にも行きたいな、もっと友達とランチもしたい、もっと服にも気を使えるようになりたい、などなど。
だけど、これで人生が終わるなら、「いつか」なんて私には来なかったってことだよね。
そこで初めて思いました。
え、まじで・・・?
心のずーっとずーっと底の方に隠れていた私自身の「いつか」、それがこんな突然「来ない確定」しちゃうの?
そりゃないよベイベー!ですよ。
がん疑惑浮上から数日、私はやっと「なんてひどい話だ」と思うようになりました。
そして考えました。
もし再検査でがんじゃなかったら、いやいや、がんだったとしても治ったら、とにかくこの人生をまだ続けることが出来そうになったら、「いつか」したいと思ってたことをすぐしよう。
「いつか」が来るかなんて誰にもわからない、それどころか人生なんていつ終わるかわからない。
「いつか」を待ってる暇なんてないやん。
私の頭の中に「検査が大丈夫だったらすぐやること」リストが出来ました。
*****
そして再検査の結果が出た日。
私に出来ていた腫瘍はごくごく初期のもので、放っておくとがん化する可能性が高いけれど、今取り除けばほぼ心配のないものとわかりました。
摘出手術を受け、ついでにその数ヵ月後に前々からどうにかしなきゃなと思っていた持病の手術もしました。
そしてそれまで自分が「いつか」したいと思っていたことを、「いつか」に頼ることなくひとつずつ実行するようになりました。
「いつか」が来る保障なんてどこにもない、と心底実感したからです。
「いつか」を待っていても仕方ない、重要なのは自分が本当にそれをしたいかどうか
そして今私は自分に「いつか」を許しません。
「いつか」なんて言ってたらいつまでたっても出来んわ!今やれ今!と日々自分自身に言い聞かせてます。
子供に対しても「いつか」を抱かなくなったように思います。
いつオムツが取れる?いつ普通の食事が食べられるようになる?いつ喋れるようになる?
次男は18歳=18年間この子を育てて来ました。
今、上記の問いに対して答えるとすれば
いつでも良いや~
です。
出来るようになればもちろんいい、でも出来なくてもそれはそれで構わない。
ただひたすら「いつか」を待ち続けるよりも、「いつでもいいや」と思うことで次男とより良い形で関わることが出来るようになったと思います。
このブログを見てくださっている方の中にももしかすると「いつか」~してみたいと思っている人がいるかもしれません。
もしそうなら「いつか」ではなく「今」行動してみてはいかがでしょうか。
もちろんそれは簡単なことではないでしょう。
でも、「いつか」を待つのをやめること、それが「後悔しない人生」に繋がるように私は思います。
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